デザイン開花する東京五輪に
オリンピックにデザインは欠かせない。開催国の歴史と文化を通して、世界の人々の心をひとつに集める「コミュニケーション」の場であるからだ。世界が一カ所に集う感動とそこに生まれる共感を目に見えるようにするのがデザインである。
開・閉会式のセレモニーのみならず、開催へと向かう過程の全てに目覚ましいときめきが必要で、さらにそこに「日本」が発揮されていなくてはならない。一国の伝統文化の粋を尽くして、運営の全局面を担うことで醸成される誇りと独創性が、世界の人々の、開催国への興味と敬意を引き出すからである。
1964年の東京五輪のデザインはそういう意味で素晴らしい前例を残した。亀倉雄策によるシンボルマークは、日本の心と五輪の叡智をミニマルに融合させた高い求心力を持つもので、このマークに当時の日本人はさぞ胸を躍らせたことだろう。また世界も、傑作マークを通して日本への期待感を高めたに違いない。
さて、2020年の東京五輪はどうだろうか。日本のデザインや建築はいまや世界の最高水準にある。これは我が国の水準が世界に追いついたということではない。東アジアの端で千数百年の伝統と文化を携えてきた日本の美意識が、世界の文脈に大いなる独自性の花を咲かせているということである。さらにテクノロジーと伝統文化が融合する未来において、五輪を契機にどんなデザインが花開くかを想像するのは実に胸が躍る。かつての東京五輪ではデザインが躍動することで成長期の日本が輝いて見えた。再び才能がせめぎ合う場が生まれることで、成熟へと向かう日本の姿も颯爽と見えてくる。
一方、政治や行政に携わる人々は、実務の局面でデザインの潜在力に触れる機会が少なく、目に見えない膨大な才能や可能性に気がついていないかもしれない。自国の未来を可視化できる絶好機をいたずらに逸さないよう、提言をさせていただきたい。
シンボルマークの設計をはじめとするあらゆるデザインや建築を意欲ある才能に開かれたコンペティションとし、そのプロセスを公開する。そして審査経過や結果の解説を丁寧に行い、設計競合そのものを広報資源として活用していくのである。
老いも若きも、志と力量に覚えのある人々は、専門や領域を超えて自由に参加できる。ただし、公募の基準は実力を精査できる水準が求められることになるだろう。
あらかじめ最終候補案を開示するルールにしておけば、それらを決定前に一般公開することができる。審査の一部への一般投票の活用も人々の興味を喚起するには効果的かもしれない。
大切なことは、オリンピックという美の祭典とも言えるイベントに、力のあるデザイナーや建築家がこぞって参加し、高水準で繰り広げられる競合の経緯を外から眺められる仕組みを精密に構築することである。
日本のクリエイティブの世界は意思疎通がスムースだ。価値観は常に共有できている。可能性をひらいていく仕組みを作るには、いつでも十全に協力できる素地はある。